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般若一族とその時代

詰将棋作家集団「般若一族」



プロローグ

地図


1970年代もあと数ヶ月で終わる年の夏。
わたくしは、東京の南、大井町の駅前に降り立った。
これがこの物語のすべての始まりだとは知る由もなかった。

大井町。

萩原朔太郎がその昔住んでいたこの町は、国鉄の工場や競馬場などを近くに発展した。
しかし、ここ大井町は時代から取り残された雰囲気を持っていた。
東京銀座から京浜東北線でわずか10分のところとは思えないほどだ。
競馬場や、競艇場などが近隣するせいか、どことなくやくざな雰囲気の漂う町だった。
住んでいる人間より集まってくる人種が作るそんな町だった。
駅前には戦後のバラックが立ち並び、その向こうには近代的なデパートが建つ。
そのアンバランスが際立っていた。

国鉄(現JR)のガード下には夜になると、大道将棋が立った。
勤め帰りのサラリーマンや、職人風の男たちがカーバイトの灯かりの中で紫煙をくゆるせながら大きな盤をはさんで対局をする。

今の時代には考えられない光景だが、それはそれでなかなか風情のあるものだ。
大塚六段という方が東京都で唯一持っている「移動遊戯許可証」。
これが大道将棋を支えている「お墨付き」だった。
これとは全く正反対に、日本道場連合会の会長の経営する将棋センターがこの大井町にあった。
その道場連合会の会長で、大井町駅前将棋センターの席主が鈴木さんという方だった。
礼儀作法に厳しい方で、きれい好きで神経質な面があった。
この鈴木さんも先の大塚さん同様、明治生まれの気骨を持っている筋金入り。

ここ大井町は、京浜東北線と東急田園都市線が交差するターミナル。
その田園都市線は、大井町から二子玉川まで東京の南を駆け抜ける私鉄だ。
その始発駅大井町から次の下神明までの間、高架線になっている。
その高架の鉄道の車窓から大井町駅前将棋センターが見えた。
ビルの3階にある将棋センターは、ガラス張りの明るい室内だ。

旧大井町駅前将棋センター


左の写真は、2007年5月頃の大井西銀座ビル。
このビルの「アーバンホーム」の上の上、3階に大井町駅前将棋センターがあった。
いろいろな詰棋人(作家・解説者等々)がここに来たことがある。
黒田紀章、近藤郷、素田黄、橋本哲、添川公司、服部敦、山村浩太郎、岡田敏、池澤
次郎、などなど(敬称略)

わたくしがここに勤務することになったのは、ちょっとしたきっかけだった。
この大井町に来たのも、将棋を生業とする何か良い方法がないか鈴木さんにお尋ねするつもりためだった。
しかし縁とは不思議なもので、そのままこの私がこの大井町将棋センターに勤めることになろうとは。
しかも約8年もの間勤務することになろうとは夢想だにしないことだった。
とにかく鈴木さんには三宅島にいずれは蟄居しようという計画があった。
誰かに将棋センターを任せたいとの考えがあった。
そこへ私が行ったものだから渡りに船、話はとんとん拍子に決まる。

こうして79年夏、私は将棋センターを任された。
以来87年にその任を終えるまでの間、仕事?をしながら般若一族の面倒を見させてもらうことになった。

人の一生を左右するような出来事。
そう言ったことも、元をたどれば石ころにつまずいただけのようなことなのかも知れない。

わたくしの仕事は、手合い係だった。

知らない人のために書くと、将棋の愛好家は将棋の会所という場所で、楽しんでいた。
その当時(今から約30年前)は将棋の会所は都内のさまざまな場所にあった。
会所はこの頃から将棋センターや将棋道場などの名前をつけていた。


最初のころは、将棋の専門家などが、教室の代わりに開いていたこともあったようだ。
その後アマチュアの愛好家の中で、特に好きな方があちこちに開いていた。
一日この将棋の会所で遊んでもわずか600円!だった。


将棋センターのシステムは極めてシンプル。
お客さんは入り口で入場料を支払い、自分の段級(強さ)と名前を言って、手合いカードを作る。
そして、なるべく自分の段級と同程度の人同士で、将棋を指してもらうのである。
まあ、人によっては強い人に教わりたいと願う人もいれば、自分より格下としか指さない御仁もいる。
将棋には、求道的精神で上達を心がける人もいれば、あくまで楽しむことを旨とする人もいるからだ。
下は幼稚園児から上は齢80になる人まで。
ホワイトカラーからブルーカラーまで。
そういうさまざまな人々を、楽しく面白く、将棋を指して帰ってもらう。
そのためのいろいろな工夫をするのがわたくしの役目だった。


具体的な主な仕事は

といった具合に、結局何でも屋になっていた。



詰将棋と指将棋


将棋にある程度興味を持っていて、実戦の経験のある方でも、詰将棋はたいてい嫌われる。
「指将棋」と、詰将棋の人は区別する。

普通の人は、将棋といえば二人で盤をはさんで指す、実戦の事を思い浮かべる。

指将棋の人が詰将棋を解くことはある。
軽いもの、手数で言えばせいぜい7手くらいまでのものが、好まれる。
それを超えたり難しいものになると、たいてい嫌悪感むき出しとなる。

大体将棋を指しにくる人は勝負の機微を楽しんでいるのであって、理屈や深い考えは不要だ。

ところが、詰将棋はその理屈や深い読みによって支えられている。
だからたいていの場合、指将棋の好きな人が、詰将棋も好きというのは珍しい。
まあ、それで終盤を強くなるためには(=強くなるためには)詰将棋をある程度勉強しないと
いけない。

そうして、指将棋人口の中のホンの1%にも満たない詰将棋の好きな人がいる。
そしてその詰将棋が好きな人のまた1%にも満たないこれを作る人がいる。
そしてその作る人のまた1%にも満たない難解長編作家、これが「般若一族」だ。

手数でいえば長いもので百手前後、短いものもあるが、わたくしたちのはむずかしいようだ。

意外なことに、詰将棋を作る人=指将棋が強いということではない。
使っている脳の部分は同じなのだろうが、興味の差というものがあるようだ。
人間は、興味のないことに力を発揮しないものである。
指し将棋そのものにまったく好奇心のない詰将棋作家もいる。

反対に、強豪といわれるセミプロのように強い人でも、詰将棋作家の方がいる。
こういう人は稀で、たいていは棲む場所が違うようだ。

さて詰将棋だが、これは指将棋と違って一人で出来る。
指将棋も強いコンピュータソフトが出回るようになって、一人で出来なくはないが、
あくまで相手があってのことである。
詰将棋は電車の中、トイレの中、待合の場、どこでもいつでも出来る。
スポーツ新聞や週刊誌などで、「10分で解けたら3級」などと見出しがついている。

ところで、詰将棋作家にはプロがいないというのをご存知だろうか?
指将棋には、専門家=プロがいて、賞金王となれば一億円を超えている。
詰将棋作家という職業もないし、プロはいない。
時折、指将棋の専門家が週刊誌や新聞などに出すときに稿料と称した謝礼をもらっているようだが
それで食っていけるわけではない。
だから、詰将棋作家のほとんどは純粋なアマチュアだ。
ほかに職業をを持っている。
指将棋の専門家にも、詰将棋作家はいて、内藤國雄九段や二上達也九段は有名だ。

詰めパラ

詰将棋パラダイス


詰将棋パラダイスという雑誌がある。
2007年6月号で通巻615号!という恐ろしく息の長い月刊誌だ。
基本的に書店売りはせずに(全国数ヶ所の書店で売ってはいる)会員制だ。
会員といっても、ただ購読を申し込むだけである。

この月刊誌は創刊以来、すべての原稿がボランティアの手によって書かれている。
多くの詰将棋作品が掲載されているが、これは在野の詰将棋作家が作ったもの。
作品やそれに対する感想は指将棋の専門家の高段者でも、小学生!でも、詰将棋
愛好家として同じように扱う。
そして、いくつかのコーナーがあって、それぞれに担当者がいる。
担当者の仕事は次のようになっている


これだけの仕事をして、一銭にもならない!からスゴイ。
まさに労多くして報われることの少ない作業だ。
しかし、世の中は広い。
この大変な作業をコツコツと十年近く続けている人たちが今の詰将棋パラダイスにいる。
かく言うわたくしも、1995年頃から一番手数の長い「大学院」というコーナーを担当。
その半年後からこれもややこしい内容の「大道棋教室」をそれぞれ7〜8年同時に続けていた。
「やさしい大学院」と称して長編の啓蒙を目指したこともあった。
また「大道棋臨時教室」と称して、新たなチャレンジをする作家を登用したり、いろいろな新企画を打ち出した。
ある月など、詰パラ(詰将棋パラダイスを略してこう呼ぶ)の全頁の2割近くをわたくしが書いていたときもある。

詰将棋パラダイス


わたくしが、大井町駅前将棋センターに就職したのが1979年7月。
その年の詰将棋パラダイス11月号の読者サロンに次の一文が載る。

「詰将棋を敬愛して止まない私、ふとしたことから貴誌を拝見、そのミリキにとりつかれました。
世の中に、こんなにも数多くの人が詰将棋を創り、解き、真剣に取り組んでるということは
オドロキであり感激でした。私は今東京の南、大井町の将棋センターで手合い係をしています。
早大将棋部の某氏から貴誌を知り早速加入します。
主幹は病気で入院されていた由。
今後充分気をつけて詰棋の発展につくして下さい。」
首猛夫


いま読むとあまりの稚拙な文章に顔が火照る。
この一文に出てくる、早大将棋部の某氏とは小川千佳夫氏だ。
ふとした縁で知り合い、その彼が詰将棋パラダイスを解いていた。
とにかく、将棋は強い、詰将棋はどんどん解いてしまう。
考えてみれば、わたくしにとっては初めての詰パラ会員だった。


とにかく、この詰将棋パラダイス(=以下詰パラ)の読者サロンに載った一文にある反響があった。
しかもその反響は、一文に対してではなく、最後のPN(ペンネーム)「首猛夫」に対してであった。

そもそも、この首猛夫という名前は、埴輪雄高(=本名般若豊)の長編小説「死霊」の主人公からそのまま取ってきた。
当時20代前半であったわたくしは、音楽・舞踊・小説などのさまざまな才能ある若い人たちとの交流をしていた。
そのスポークスマンのような存在を友人が「まるで首猛夫みたいだ」といったのがきっかけだった。

死霊


この「首猛夫」に反応したのが、近藤郷であった。
たしか、この詰パラのあと1980年の1月ごろに彼は大井町駅前将棋センターにやってきた。
彼もまた、「死霊」の読者だったのである。

この頃のわたくしはこういうことを日頃から心がけていた。
今の時代とは異なり、インターネットもなく、携帯電話もない。
だから、考えられるメディアにくまなく「何か」を残すようにしたのだった。
「首猛夫」はそうした考えから、いつの日か埴輪雄高の小説を読んだ人が来るに違いないと踏んでつけたPNである。

しかし、まさかこんなに早く来るとは思っていなかった。

開口一番「こちらに首猛夫さんいらっしゃいますか」
これが、始まりだった。
本当の意味でこれがすべての始まりだったのである。

1980年代の詰将棋界


1980年代に入ると、長編詰将棋界は長手数レースへ突入した。
上田吉一の「積分」や「モザイク」などを下地に、新たな構想作品が発表された。
「持駒変換+と金はがし」という基本構造を持つ、類似した作品が相次いで発表された。

長手数詰将棋はまず、江戸時代(宝暦5年=1755年)に伊藤看寿が作った寿(ことぶき)がトップだった。
600手を超える作品は、長い間他を圧倒していた。
これを奥薗幸雄が「新扇詰」で1955年に破った。
実に200年ぶり!の更新である。
しかも873手という驚異的な記録更新である。
伊藤看寿も奥薗幸雄も、反転型竜追い×(持駒変換×と金はがし)という手法を使っている。
奥薗の新しいところは、置駒消去という概念を加えたところにある。
もちろんそれだけではなく、随所に細かいところではあるが、新しさを盛り込んでの快挙だった。

それから、時代は詰将棋の黄金期を迎える。
戦争の世紀が終結し、平和な日本が誕生したことも大きな要因だろう。
詰将棋パラダイスをはじめ詰将棋を掲載する雑誌が増えたことも大きく貢献した。
そうしたことを背景に、詰将棋は次々に新しい作家を輩出して言った。

まず、1982年に山本昭一が「メタ新世界」で941手で記録を更新した。
この作品は、前述した『「持駒変換+と金はがし」という基本構造を持つ、同じような構想作品』の頂点に立つ作品である。
この作品には、山本昭一のアイディアが多く盛り込まれている
しかし、同じ世代の切磋琢磨した集大成とも言えるものだ。
上田吉一はもちろん森長宏明や添川公司らの考えが大きく貢献しているといえるだろう。
そして、その長手数機構に革命的な作品が二つ生まれた。
ひとつは、橋本孝治の「イオニゼーション」(1985年))
これはまさにフェアリー(ふつうの詰将棋とは異なったルールでできている世界)感覚の詰将棋。
と金の横追い(キャタピラーのように無限軌道を髣髴させる)+龍の横ばいで合駒の位置変換を使っている。

そしてもうひとつは、添川公司の「桃花源」(1985年)だ。
これは従来の馬鋸という概念を覆した、まさに新機軸、「一手馬鋸」と呼ばれる概念を作り出している。
どちらも、甲乙つけがたい時代の頂点に立つ内容だが、肝心の長手数そのものは「メタ新世界」にわずかに及ばない。

そしてついに、そのときが訪れる。

「ミクロコスモス」(1986年)の誕生である。
「イオニゼーション」で、新たな長手数機構を作った作者が、それに馬鋸をドッキングさせて作り上げた。
千手をはるかに超えた、その作品は1525手(その後改良を加えてこの手数になった)。
今もって、この手数を超える詰将棋はなく、輝き続ける歴史的作品である。

この時代、1980年代はまさに詰将棋界にあっては黄金時代だった。
煙詰をはじめとする条件作や、さまざまな趣向作品が生まれ、若い天才が大活躍した時代だった。
その時代、謎解き・パズルとしての挑戦・異様な世界、こういったものを作り出した詰将棋作家集団が「般若一族」だった。

「般若一族」は、こう考えていた、

『詰将棋はあくまで、解答者との対峙である』

その難解さや異様さが生み出すエンターテイメントこそ、詰将棋の醍醐味であると感じていた。
その作風も異様だが、作る手法も変わっていた。
アイディアを考える者、それを図化する者、理論を構築する者、それらを統合する者、そして検討する者。

たとえば、「千山」の場合。
アーベルの置換群をヒントに、こういったものが作れないかと考えたのがわたくし首猛夫。
それの基本図を図化したのが素田黄。
具体的な理論構築は首猛夫。
統合したのは黒田紀章。
検討したのが斉藤修と素田黄。
おっと、作品的価値のわからないわたくしたちに、勇気をくれたのが近藤郷。

わたくしたちがこの「千山」最終検討を終え、最後に詰手順を一つ一つ確認していたときのことだ。
将棋センターは黒山の人だかりだった。
黒田氏とわたくしが、声を掛け合いながら駒をゆっくり動かしているとき。
将棋センターは、ある種異様な雰囲気に包まれていた。
新しい発明品を息を潜めて見つめる人たち
詰将棋がいかに芸術的で、素晴らしいものかをわかってくれる人がたくさんいたのだった。
そして、最後詰め上がりの局面の最終手を指したときに、人知れず拍手が起こった。
そして、黒田氏がおもむろに、近藤郷氏に向かって「どうだゴウこの作品は」と、問いかけた。
(黒田氏はいつも近藤郷氏をゴウと呼んでいた)
「完璧です」近藤郷氏がこう答えたときに拍手が再び起こった。

しかし、最初わたくしたちのアプローチは中々その時代の詰将棋界に受け入れてもらえなかった。
まあ、当時の詰将棋パラダイスの編集主幹が、面白く誌面を盛り上げたいとの思いも重なって、
少し大げさでアナクロじみた感じも否めなかった。

しかし、それは時代背景もあったのではないかと、今になって思っている。
なぜなら、いま時を経て、当時の背景や時代の空気とは関係なく、作品そのものがものをいってくれるからだ。
「虎バサミ」をはじめ、当時は好感を持ってくれなかった、異様な作品群が今になって評価されている。
それは真に作品だけを見つめる目が、生き続けていた証左である。


黒田氏との出会い


将棋センターの勤務も慣れてきた頃、一人の使者がやってきた。
藤島禮治四段である。
西大井の豆腐屋の息子で、入間の航空自衛隊で飛行機の整備士。
わけあって除隊後、実家を手伝うかたわら大井町にやって来ては将棋の研究をする。
長身痩躯さっぱりとした性格ながらその研究は奥深いものがあった。
奨励会員でもないのにやたらに香落ちに詳しかった。
特に上手34銀戦法は詰みまで研究していた。
指将棋を独自の口上で面白おかしく盛り上げていた。
中でも、桃太郎侍の仕上げの切り出しが得意だった。
(ひと〜つ人の世の生き血を吸う、ふた〜つ不埒な悪行三昧・・・)っていうあれである。
相手も寄せられた上に口上まで聞かされてはたまらなかっただろう。

図面


そんな彼も1作詰将棋の作品がある。
作るぐらいだから、のめりこみようも相当なものである。
左の図は詰将棋パラダイスに入選した作品だが、処女作にしてはよい出来栄え。
強い人なら一目だろうが、将棋センターですぐに解けた人はいなかった。

藤島四段は、都内のいろいろな道場に行っていた。
いわば他流試合のようなものだろう。
わたくしが詰め将棋の愛好家と知って、彼は「五反田の六段」の話をした。
大井町駅前将棋センターから、車で10分、電車でも三駅(ただし品川で乗り換え)。
五反田は隣町だった。
そのやはり駅前に、五反田将棋センターがあって、そこに黒田紀章六段はいた。
毎日のようにやってきては、奨励会員(専門棋士の卵)や県代表クラスと言った強豪と指していた。
その黒田氏から藤島四段は「図面」を預かってきていた。
「馬賊戦記」の初期の図面だった。

二枚の馬が蝶のように盤上を舞い、いったい何の目的で馬が動いているのかが、さっぱりわからない。
説明する彼でさえ、手順を覚えてはいるものの、変化紛れとなるとさっぱりだった。
とにかく、看寿・宗看を超える新たな地平を感じさせる作品だった。
突出した知性と感性に、おののくばかりだったのを覚えている。

わたくしと黒田氏の出会いは、まず詰将棋の図面を通してであったが、その後の二人の命運を暗示していた。

「般若一族」は総じて将棋が強かった。
わたくしは一番弱い方でそれでも道場では四段で指していた。
黒田紀章六段は、アマチュアでは異例の存在で、いわば「真剣師」のような存在だった。
「真剣師」はお金をかけて将棋を指す人で、双方に本格的になると旦那衆(スポンサー)がついて
かかる賞金が何百万にもなる話を聞いたことがある。
まあ、こういう話は尾ひれがついてだいたい大きくなりがちだとしても、相当な金額だったと思われる。
黒田氏はそういう「真剣師」とは違って、相手のほうが乗っけて(お金をかけて指しましょう)来たふしがある。

しかし、こういう「真剣師」といわれるアマチュア強豪とはどこか違っていた。
芸術を愛して、格闘技を実践し、こどもに優しく、よく人を煙に巻いていた。




黒田氏との出会い2


さて、その黒田氏にいよいよ会う時がやってきた。
誘いの電話が来たわけでもないし、藤島四段が呼びにきたわけでもない。
わたくしの方から勝手に会いに行っただけである。
毎週木曜日が大井町駅前将棋センターの休業日だったので、木曜日に五反田将棋センターに
押しかけていった。
大井町より幾分広かったように記憶している。

入り口には席主がいて、まずは入場料を払う。
そこで自分の大体の段位を言って、指将棋の相手を探してもらうのだが、「黒田さんという方に
会いにきた」と用件を言うと、席主は甲高い声で、いかつい大柄な黒装束の男に向かって、
「黒田さん、お客さんですよ」と言った。

黒田氏とおぼしき人物は、将棋を指していた。
こちらをちらりと伺って、すぐさま盤に目を落とし、なにやらぶつぶつ言って「終わりだろ・・」
と相手に投了を促していた。

すぐには近づけない雰囲気があり、わたくしはしばらく遠巻きに将棋を見るともなくぼんやり眺めていた。
相手は頭をかきながら、こちらもなにやら呟いて、盤を離れながら、わたくしにどうぞと黒田氏の前の席を
勧めてくれた。

黒田氏に会釈をして、前に座ると「奨励会か?」と尋ねてきた。
「いいえ、詰将棋を見せてもらおうと思いまして」と言うと
「まあ、一局だ」と言うが早くも、駒を並べ始めた。
「あの、将棋を指しに来たのではなく・・」と言っても、とにかく一局指そうと言う言葉に押されてしまった。

以降、長年の付き合いの中でも、黒田氏のこの何とも言えない威圧感は、他にないものだった。
不快かといえばそうでもなく、いい意味での緊張感もあった。

将棋の内容はほとんど覚えていないが、とにかくわたくしのような弱い者の相手になるような人ではなかった。
しかし、終盤になると、わたくしが相手玉に必死を掛け、わたくしの玉は詰まない状態になっていた。
すると突然「これはあんたの勝ちだ、どうしてかわかるか?」と含み笑いを交えながら、こちらをのぞくように
低い声で呟いてきた。

図面



必死と不詰の関係を言うと、突然盤を壊して、代表作を見せてみろと言う。
その頃のわたくしは、何一つ作っていなかったが、習作のような打歩詰打開作品を考えていたのでそれを見せると
次に、左のような図面を盤に並べた。(⇒「創作や修正」の「衛星の棲(原理図)」を参照)

この図が解けるかな?と言われ、一生懸命考えた。
この頃のわたくしは、おそらく一番詰将棋が解けていたと思う。
数分で解けたが、すごいと思った、胸が高鳴った。

黒田氏は、おもむろに「合格だな」と言って、理由を話し始めた。
何でも、詰将棋は詰む詰まないのぎりぎりのところで、全体を見渡せないと、
それが詰んでいいのか詰まなくて良いのかがわからなくなると言っていた。

論理的な頭の構造を持っていないと、詰まなくて良いものを、死ぬほど詰まさなくてはいけないと思い、一生を無為に過ごす
ことになる、とまで言うので思わず笑ってしまった。
しかしそのことを思い知らされる時が、来るとは夢想だにしなかった。

黒田氏は、すぐに「虎バサミ」を並べ始めた。
とにかく、有無を言わさぬ口調と、あまりの論理展開の速さに、わたくしは吐き気を覚えたくらいだった。
詰将棋史上初の「人間の慣性を利用したトリック作品」との説明を受け、あまりのすごさに腰を抜かしそうになった。

黒田氏は関西の人だった。
それがどうしてこちらに流れ着いたのか、そして今何を生業にしているか、家族はいるのか、そういったことは一切
聞かなかった。
そう、まさに詰将棋以外のことは何も知らないのであった。
そして、彼が思いだすように語る彼のこと以外にわたくしは今でもまったく知らない。
濃密な7年もの間、そのことを守ることが互いの約束だったかのようである。

黒縁のめがねをかけ、眼光鋭く、意志の強い顔つき、歯並びはガタガタ、一日百本は吸うロングピース。
剣道を警察に教え、キックボクシングもやる彼は、武芸者としての身のこなしを持っていた。

こうして最初の出会いは終わり、以降毎週木曜日に、五反田将棋センターで彼との詰将棋談義が始まった。
もちろん、いろいろ批判したり、解いたりするのではなく、あくまで作ることを標榜していた。
大した作品一つ出来なかったわたくしに何が出来るかはわからなかったが、使命感を感じたのは確かだった。

全身にみなぎる緊張感と集中力を強いられたその時間のおかげで、今のわたくしがあるのだと思う。


    

般若一族結成


黒田氏との出会いから、数週間が過ぎわたくしは毎週木曜日、大井町駅前将棋センターが休業日の時
五反田将棋センターに通った。
時には黒田氏が指将棋に忙しく、わたくしはただその将棋を観戦するだけに終わった。

黒田氏の指将棋は実に独創的で、森下システムなどは、すでに確立されていた。
飛車先をまったく突かず、コビンをあけて、桂だの銀だのを先に前線に持っていく。
相手の態度を見てから、駒組みをする。
じゃんけんで言えば「後出し」が将棋の原則だった。

今、関西の糸谷四段が指している、対振飛車の右玉戦法は、その頃の黒田氏の十六番だった。
振飛車には「反撃性」や「迎撃性」はあるが、自らの「攻撃性」や「進展性」に乏しく、右玉に組んで

@振飛車側がバランス良く左右に分かれたら、玉頭から殺到してよい。
Aまたアナグマや四枚美濃のように固めたら、右側面から入玉してよい。

まさか、彼の使っていた戦法や考え方が、未来の将棋界で実現するとは・・・

彼はよく「将棋に気合は要らない、終盤もすべて論理的に制覇される時が来るだろう」と言っていた。
今の時代、「気合」を口にする棋士がいるが、これも後十数年を経て、コンピュータに制覇された時に
果たして意味あることなのだろうか?

しかし、一方で黒田氏は剣道家(警察官に教えていた。戦前中国で活躍?した水島大尉の弟子だそうだ。)
であり、キックボクシングをこよなく愛し、「裂帛(れっぱく)の気合」が大切などと話していた。

しばらくして、「虎バサミ」をどこかへ出題しようかと言うことになった。
黒田氏は、「近代将棋」にかなり熱を入れていたが、ぜひとも詰パラへとわたくしは思っていた。
「虎バサミ」はご存知の通り、「正解者ゼロ」のトリック作品であり、美しい配置と知性的な変化は
見るものを魅了する傑作である。
しかも、解答者の声を聞かずして、何でこの作品が語られようか。
こちらの思い入れも相当だったが、それ実現するのはまだ先のことだった。

そうして、毎週木曜日に五反田将棋センターでの詰将棋談義がその界隈に広まるにつれ、詰将棋に
興味のある高段者も時折加わるようになった。

しかし、ここに一つの問題が生じた。
五反田と大井町、直線にして僅か数キロのところにある、将棋センターであり言ってみれば、商売敵
(がたき)である。

まさか、こちらに他の将棋センターへの偵察やスパイなどという意識は毛頭なくても、五反田の席主に
してみれば、面白くないことこの上なかったようだ。

黒田氏はこういうところで実に繊細な配慮を見せる。
わたくしと五反田の将棋センターの席主のことを考えて、どこか別の場所でということになった。
そこで、われわれは五反田駅から歩くこと数分の、地下の喫茶店「しゃるむ」に場所を移した。

布の将棋盤(フェルトにミシンで白い糸を縦横に縫ったもの)にプラ駒でそれこそ朝の十時くらいから
閉店の夜十二時近くまで詰将棋のことばかり話していた。
情熱は常に人を動かし、時代をつくる。
そして信じられるのは、この情熱だけだ。

大井町センターの常連だった素田黄氏も加わるようになり、ここに般若一族が結成された。




般若一族結成2


黒田氏は将棋以外の話もよくされた。
元々格闘家だったので、キックボクシングや空手、柔道のことをわたくしにも教えてくれた。
特に剣道は師範(事実警察にも教えに行っていたようだ)だったらしく、話に熱がこもっていた。
「しゃるむ」の他に、五反田将棋センターの入っているビルの中に「マイアミ」と言う喫茶店が
あって、二人だけの時はよくそこで話をした。


虎バサミや、銀馬鋸(このときはまだ未発表だった作品)をどう出題するかと言う構想の前に、
正解者ゼロの作品の話が出た。
「今井光作品」のことだった。


それは、わたくしが黒田氏の最初の作品はどんなものなのか尋ねたときに、出てきた話だった。
「二枚の飛車が互い違いに出てきて、連続中合で逃れるので、序盤からいろいろ備えるんだったなあ」

黒田氏とのやり取りでは良くこんなことが起きた。
果たしてそれほどまでに、自作のことを覚えていないものなのか?
それとは反対に、自分自身の中では「未完成」なものに対する変化紛れのほとんどが即答できることと
比べると、この人物の頭の構造はどうなっているんだと、思いたくなった。

その「未完成」と言う作品の一つが「虎バサミ」だったが、その紛れと変化は数千手、いや数万手かも
しれない、とにかく巨大な情報量が詰まっている。
そのほとんどが頭の地図の中に、意味ある配列として収まっているこの巨人が、いくら十年と少し前の
ことだとは言え、忘れてしまっていることに驚いた。

しかしその謎はすぐに解けた。

出来上がってしまうと、ほっとして緊張感がなくなるのだ。
その昔、故加藤治郎名誉九段が昭和24年に現役を引退された時に、いままで頭の中で緻密に並んでいた
将棋の定石が、音を立てて崩れていくのがわかったと話されていたことがある。
もちろん、専門棋士であるから、たいていのことはその場の判断が利くだろうが、高段者を相手にしのぎを
削るような戦いにあって必要な定石は、朧気(おぼろげ)になってしまったということだろう。


そうして、「今井光作品」の話しになったわけだが、とにかく良く憶えていないが確かこんな作品だったと
説明しても、残念ながら図面は頭から消えてしまっている。

だいたい、そのように込み入った作品を作っておきながら、ノーと一つ残さないところが不思議だ。
聞けば、なぜ詰将棋を作るようになったかと言うことまで話が及んだ。


話がそれるが、興味深い話なのでご勘弁いただこう。


話は黒田氏がまだ二十代前半の頃にさかのぼる。
何でも、彼は渋谷の高柳道場に将棋を指しに行っていた時代があって、そこではかなりの腕前だったらしい。
平手でマコちゃんとやって勝ったこともあると言うから相当なものだ。
マコちゃんとは、中原誠永世十段・名誉王座のことで、おそらくプロになったばかりか奨励会だろう。

もちろん、アマチュアの強豪は今でも若手に平手で勝つことがあるし、そんなに珍しいことではない。

それにしても強かったのだろう、黒田氏は。
わたくしがお会いした頃は、都名人や県代表クラスに良く勝っていた。

しかし、所詮アマチュアは中々専門棋士には勝てず、何かこの専門棋士をやり込める方法はないかと模索した。
そこで詰将棋となるのだが、もともと格闘技の好きな方だったから、詰将棋も挑戦状の意味が大きかった。

後の「般若一族」が解答強豪に挑戦したのと同じスタンスだ。
ところが専門棋士の詰将棋の説く速さと言ったら、物凄かったらしい。
黒田氏の目の前で、ほかの詰将棋作家の二十数手の作品は、並べるか並べないかのうちにあっという間に
解かれてしまったらしい。

そこで、黒田氏は自分の将棋の力、そして知力の限りを尽くして、作品を作ったそうだ。
二重三重に鍵を掛け、しかもトリックを仕掛け、陥穽を設け、彼ら専門棋士が苦吟するのを楽しみに創作した。

そうやって出来た作品の多くは、誤って捨てられてしまったそうだ。
何でも高柳道場の掃除をする方が、世紀の詰将棋のたくさん詰まった図面集を、ごみと間違えて捨ててしまった。

恐ろしいことに、「完成」してしまった詰め将棋のことを覚えていない黒田氏は、その作品のほとんどを無くして
しまった。
「未完成」だった「今井光作品」だけは覚えていて、完成したのち面倒くさかったそうだが、近代将棋に投稿した
とのことだった。

その捨てられた作品の中に、彼が最高峰と呼んでいる作品があったそうだ。
概念しか伺っていないが、

 『AとBのふたつで回転する場所があり、その離れた二つの場所をつなぐ細い線がある。
  その線を一回だけ意味不明の通過をしないと、解けない仕組みになっている。』

彼との話はいつもこういう話だった。


話を戻そう。


わたくしは、その正解者ゼロと言うすさまじい作品のことがどうしても知りたかった。
掲載されたのは、近代将棋とのこと、手がかりはそれと「ヒカルイマイ」という当時の競走馬の名前を筆名に
使ったということだけだった。

早速バックナンバーを近代将棋社に問い合わせするが、もう在庫はないとの返事。
それではというので、国会図書館に行ってみることにした。

探すこと半日、やっと該当する号は見つけたものの、簡単な変化・紛れの記述では一体なぜこんな手順が成立する
のか皆目見当がつかない。

そこで何度か盤に並べて研究して始めて、全容が明らかになってきた。

答えを見てわからない詰将棋とは、いやはや何ともややこしい。

もっと驚いたのは、この研究結果を当の本人に見せたら「こんな物を作ったかな〜」と意外な反応で、徐々に
思い出してきては、「あっ、この変化には苦労したんだ」とか「ここで変化を作意より2手短くすればもっと
難しくなるとか、懐かしそうに話していたことだった。

しかも、ただ一人の正解者は自分自身だというのである。

彼の筆名は「黒龍江」、唯一の正解者は「柳晃」、どちらも「リュウコウ」である。

なぜそんなこと?

それは正解者がいないと、難しすぎるといわれて敬遠されるからで事実当時の塚田十段はあまりに難解な詰将棋は
好ましくないとコメントしている。

実質、正解者ゼロのこの作品が日の目を見たのは、わたくしがその後詰将棋パラダイスに、研究成果を発表した
1980年代だった。

そうして一つの作品を通じて、わたくしの行動力とあくなき探究心から、黒田氏は実力のないわたくしでも
「情熱は信頼できる」と認めてくれた。

さあ、舞台は揃った。
あとは、解答者にどうやって挑戦状を叩きつけるかだった・・・・



(この項続く)


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